2019年 02月 28日
2月28日(木):理と情の狭間で |
先般に出張先のホテルでニュースを見ていて気になったことのひとつは「看取りの家」という施設の開設を進める事業者に対して周辺住民から反対運動が起こっている事柄です。
「看取りの家」というのは余命がわずかな高齢者を病院ではなく、できるだけ自宅に近いような環境で過ごしながら望ましい最期を迎えてもらうための施設で、ホームホスピスに分類されるような施設です。
反対をしている周辺住民の方々の声としては「日常的に死を連想させる寝台車を見たくない」「落ち着かない」といったものが挙がっています。
かつては自宅で最期を迎える方も多かったですが、現在の日本では圧倒的に病院でという方の割合が増えているなか、既に超高齢社会に突入している日本ではこれからますます病院のベッドが不足していくために、どこで最期を迎えるのかといったことは絶対に考えなければならない問題です。
その時にホームホスピスのような場はひとつの選択肢になりえるものだと思っていますが、施設の開設が予定されている周辺住民の方からすれば、素直には受け入れ難いということなのだと思います。
これからの社会の動向や、誰しもがいつかは自分もそうした時期をむかえる、ということを考えれば先のような施設が必要だとアタマでは分かっていつつも、心情的には賛同できないといったところでしょう。
これはいわゆる「NIMBY(ニンビー:Not In My Back Yard)」で直訳すれば「自分の家の裏は嫌だ」ということで、必要性は理解するけども自分の居住地、至近距離の生活圏にはやめてほしい、といった心情、行動を示すものです。
このような心情や行動は今回のホームホスピスだけではなく、他の地域でも生じている保育園の開設に対して起こった周辺住民の反対運動もそうだし、もう少し視野を広げればエネルギー資源としての原発も、そして安全保障のための基地についても同様なことが言えます。
ただ、原発などはエネルギー政策で政府によって推進された面はあるし、方法論として別な手段の代替案がないわけでもなく、政策の転換によって別な道を歩むことはできます。
でも子どもが生まれて育つための場としての幼稚園・保育園をはじめ、誰もが必ず迎えるべき死というのは他に代替手段、逃げ道がない点は決定的な違いです。
そうしたものを不可避なものを果たしてどこまで忌避していってよいのか、ですね。
それらを目に映らないように、そして臭いものに蓋をするように、隔離された山奥にでもこのような施設を集約させればよいのかと言えば、それは違うだろうとの話にはなるはずです。
必要なことは受け容れていくべきだし、直視すべき現実から過剰に目を背けるべきでもないでしょう。
また、そのようになってしまう理由のひとつとして死というものを特別視し過ぎているきらいがあるようには感じます。
死とは隔絶されたものではなく、日常と地続きにあるものという感覚が完全になくなってしまった面があり、それもまた現代病のひとつかもしれません。
誰しもが生きていく中ではいつしか自分の死を迎えるし、家族をはじめとして大切な人をを看取って遺される側にもなるだけに、先のような点について一度は向き合って考えたいテーマだと思います。
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by biz-365
| 2019-02-28 21:44
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