2017年 10月 03日
10月3日(火):「質の高い共同生産」の成立条件 |
昨日は「共同生産のカタチ」と題して、サービスにおける提供者側と利用者側における相互作用としての共同生産の形態に触れました。
具体例としては「コスト削減」のための共同生産もあれば、「価値伝達の代行」としての共同生産など様々です。
またそこへの関与の仕方として、提供者側からの「強制」もあれば、利用者側の「自由意思に基づく積極関与」もある通りです。
昨日のブログにも記した通りですが、本日はこれに関連した内容をもう少し続けます。
先週末の週報でALIVEの社員たちには共同生産についての考えを含んだメッセージを送ったところ、即座にそれぞれからリアクションがあった旨は以前に記載した通りです。
そのなかでは「小型のクラブでは自然とこうした形になるものなのか」、「違いが生じるとしたらどのような要素なのか?」、「2店舗目以降で再現性を作るにはどうするべきか?」といったものがありました。
それについては私なりの考えを示しましたが、ここにはその一部を掲載したいと思います。
「共同生産の質の高さ」ということでいえば、「小型であるほうがこうなりやすい」というのは確かですね。
これは「村」と「市民社会」の政治を例にとると分かりやすいでしょう。
仮に人口が200人前後の村の場合は住民が全て互いのことを知っています。
その場合の政治としての「まつりごと」は自治が基本だし、そこで決めたことはすべて自分たちに直接的に関係をしてくることだから、そこへの興味関心、関与といったものは必然的に高くなっていきます。
一方、人口が20万人ぐらいの行政都市になってしまうと、その「市」に住んでいるそれぞれは互いのことを知らない「他人」です。
同時に政治に関与するのは選挙によって選ばれた議員による間接的な政治で、それが行われている場も目に見えないものになっていくから、市民の政治に対する関心は希薄になっていくし、そこへの関わり方の姿勢というものも消極的なものにしかなりません。
結果として「市」というコミュニティに対して、市民個々が感じる「責任」とか「愛着」といったものは薄れ、どこか果たすべき義務よりも権利を主張するようになります。
これがいわば人間としての特性であり、現実としての状況だと思います。
そのようなコミュニティのサイズ、政治の制度による違いといったものが、「小型クラブ」と「大型クラブ」における共同生産の質の違いとして、「表れやすい」と言えますね。
その一方で「小型であれば、必ずそうなる」というものでもありません。
一例をあげるとすれば小学校や中学校などの各クラスを思い浮かべてもらえると良いですね。
各クラスともに同じ年代、性別がほぼ均等になった小集団としてのコミュニティです。
それでいながら、クラスごとのまとまりや空気感には違いがあったはずです。
それは、そのクラスを束ねる教師の考え方や能力といった人間的資質、そしてクラスの中心的な生徒の人間性、などといったものによってクラスにおける「和」というもののあり方が目に見える形で違って表れる通りですね。
だから「小型」というのは、共同生産の質が高い望ましいコミュニティための必要条件のひとつであり、その上に乗る「十分条件」としてのコミュニティに影響を与えるリーダー、構成員の考え方、資質があると説明できるでしょう。
2店舗目以降のALIVEでも同様な形を作り上げていくための再現性ということでいえば、必要条件そのものは同じになってくるので、あとは十分条件のところです。
望ましいコミュニティの姿とは何かというイメージをあらかじめ共有しておくことだし、そのうえで、そこに近づけるような意識や働きかけをしていく、といったことだと思います。
(ここまで)
ちなみに前述したようなコミュニティや政治制度によって生じる違いなどは目新しい状況でもなんでもなく、今から150年以上も前には既にトクヴィルが民主政治の弊害として指摘をしていた事柄です。
そうしたことをあらかじめ理解していれば、小さなコミュニティのほうが共同生産の質が高くなるのは当然の帰結だと言えます。
社員たちにはALIVEを立ちあげる時から「健康習慣を基軸にした小さな村をつくる」と言ってきたわけですが、そこにも私なりの意図は投影されています。
小型クラブでそうした面までを論理的に考えながら突き詰めているクラブはほとんどないでしょう。
それだけに、こういった点でも「違い」を生み出していくことは可能ですね。
今後も望ましいコミュニティ、望ましい共同生産を継続・発展をさせていくことができるようにしていきたいと思います。
by biz-365
| 2017-10-03 18:57
|
Comments(0)