2020年 05月 24日
5月24日(日):自分の感覚を大切に |
先般の日経MJには「瞑想で自粛疲れ癒す」、「額にセンサー 脳活動測定」と題した記事がありました。
こちらで取り上げていたのは「ストレスマネージャー」というアプリケーションです。
内容としては小型センサーを額に付けて、アプリの指示に従って瞑想をすると、センサーがモニタリングした情報に応じてスマホ画面が赤・緑・青のグラデーションで脳活動を評価してくれる、といった仕様です。
個人的に率直な感想をいえば、「意図はわかるけれども・・・」といった感じですね。
私がこれをやりたいかといえば、残念ながら「NO」です。
本当に自分で心を落ち着けてリラックスをしたい時に、アタマにセンサーをつけて、スマホ画面を参考にしながら呼吸を意識したいかといえば、まったくそうではないからです。
自宅の中でリラックスをしようと思えばヒーリングの音楽をかけながら自分で楽にするとか、明かりを落としながら浴槽でゆっくりするとかで十分に事足ります。
また外に出るなら海まで軽く散歩をして自然の光景を目にしながら波音を聞いているだけで癒されますね。
いずれにせよ、何をするにも「機器」や「数字」といったものに頼り過ぎ、そこに傾倒していくことのほうが「疲れ」を助長する気がします。
昨今はマインドフルネスなども盛んに言われるようになってきましたが、それとてエビデンスなどによってその効能が認められた点が大きいと思います。
でも、瞑想自体は今から2,000年以上も前のブッダの時代からあるわけですし、その必要性や意味は古くから説かれ、実践をされてきたものです。
それはエビデンス云々というよりは身体性をともなった知恵であり、心身相関に対する理解や感覚によることでしょう。
エビデンスがなければ、そこに意味を見出せない、何も信じられないということでは、自分のなかでの「感じる」という要素、実践を通じて何かを会得して身体化する感覚は余計に乏しくなる一方で、そちらのほうが問題だと感じますね。
当然ながら医療などの命に係わる分野ではエビデンスが重要なのは論を俟たないですが、そうでない領域まで何もかもエビデンスベース、数値化・可視化しなければ気が済まないというのは、ちょっと行き過ぎな気がします。
いつだってエビデンスより先立つのは感覚であって、エビデンスが出てくるのは事後的なものでもあるからです。
自分の状態を客観的に捉えたり、日々の変化を掴む意味で自らの状態を数値化することは意義があると思いますが、それとは反対に自分の外側にある数字・定量化されたものに合わせるように急き立てられて、そこに縛られてしまうのは意味合いがまるで違います。
身体性や自分の内的な感覚に対して、自分自身が自覚的になっていくことが、自分をコントロールする本来的な第一歩だと思っています。
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by biz-365
| 2020-05-24 17:49
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